時事解説

2017年04月19日号

【評伝】
司法改革の道筋を残した元検事総長・原田明夫氏の生涯(2)


●布施健との出会い
 周知のように昭和35年、『日米安保を通すため政治家が右翼・ヤクザの力を借り』てから急激に力をつけたのに始り38年には『組の規模が戦後最大の5197団体18万4691人にまで膨張した時代』となった。この事態を何とかしなければと警察庁は第一次頂上作戦を開始した。

 原田は1965年(昭和40年)4月、任官から2004年(平成16年)6月25日検事総長退任まで40年近く法務・検察で働いた訳だが、始りは同月8日、新任検事(17期)14人とともに東京地検に配属されたことだ。東京地検で検事の基本をみっちり教育された。この時代の東京地検は検事正が渡部善信、次席検事がロッキード事件を指揮した布施健、特捜部長が河井信太郎。ちなみに検事総長は馬場義続、法務事務次官は竹内寿平だった。

●田中角栄の台頭
 私は「政治を取り巻く環境は田中角栄が台頭してきた頃から激変した」と捉えている。田中は河野一郎と親交の深かった政界の黒幕・兒玉誉士夫、政商・小佐野賢治を支え、ヤクザを操り裏世界にも大きな影響力を持つようになった。

 原田が任官した頃が丁度その時期といえる。

●在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官
 原田が部内で注目されるようになったのは1975年(昭和50年)在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官に起用された時からだ。前年の74年11月26日、田中首相が辞意表明、総理は福田赳夫と大平正芳の衝突を避ける狙いの椎名裁定によって三木武夫と交代、三木内閣が誕生していた。法相には稲葉修が就任していた。

 私は、三木内閣の誕生で田中に検察の手が入る、と見立てた。

 検察官が外務省に出向し、在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官に就くということは日本の検察を代表して「日本検察のアメリカ駐在員」になるということだ。原田は機会さえあれば若きエースとしてマウンドに立てる機会を掴んだということだ。

 原田の在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官起用は布施総長、塩野宜慶法務事務次官、伊藤栄樹東京地検次席検事が関与していないとは私には考えられない。布施は東京地検特捜部長の経験者で75年1月25日、検事総長に起用されていた。原田は布施ら期待を背負って渡米、ワシントンに赴任したのである。

●ロッキード事件 
 原田が在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官に起用された翌年の2月4日

周知のように米上院多国籍企業小委員会が、ロッキード社の日本政府高官への贈賄を公表し、日本国民を震撼させた。ロッキード事件の幕開け、となった。

「東京地検特捜部」は直ちに本格捜査に着手。

2月16日、衆院予算委員会、国際興業社主小佐野賢治、全日空社長若狭徳治、副社長渡辺尚次を証人喚問。

2月17日、丸紅会長檜山広らを証人喚問。

3月4日、東京地検特捜部、兒玉誉士夫を臨床取り調べ。

3月5日、兒玉誉士夫を脱税容疑で起訴。

7月27日、田中前首相を逮捕

8月16日、受託収賄罪と外為法違反で起訴

8月17日、保釈保証金2億円で保釈。

●原田の奮闘 
 アメリカ上院のチャーチ委員会が火をつけたロッキード事件は「日本検察のアメリカ駐在員」であった「在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官」原田の登場を促す格好の舞台」となった。原田は三木総理、布施検事総長ら日本の検察の期待を背に八面六臂の活躍をしたのであった。原田34歳であった。

 その時の活躍ぶりを原田の死を伝えた各紙は次のよう報じた。

「75~78年の在米日本大使館一等書記官時代にはロッキード事件の捜査に携わった。」(時事通信)

「76年のロッキード事件では在米日本大使館の1等書記官として、ロッキード社元副会長らの嘱託尋問などを実現する窓口役になった。」(読売)

「ロッキード事件では、在米日本大使館1等書記官として米国側と資料の引き渡し交渉にあたった。」(朝日)

「在米日本大使館1等書記官時代には、ロッキード事件で日本の法務・検察と米司法当局との橋渡し役を務め、前例のない嘱託証人尋問の実現に奔走した。」(産経)

●検事総長への道
 原田の在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官起用は布施らの的確なヨミであったと私は評価する。原田は在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官としで余人をもって代えがたい人物であった、ということだ。

 原田は10年前の布施との出会いが検事総長への道をばく進することになった。(続く)


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